「絶対者と自己について」

 

私は、今回のレポートを「絶対者と自己」というテーマについて書こうと思う。蓋し、議論というものを行うにはまず、定義、定理が必要となる。その意味で、最初にはっきりさせておきたいことは、この両者の定義である。

まず、「絶対者」であるが、この言葉は「神」と同義である。といっても、日本の神道や仏教のような多神教の相対神ではなく、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教などにおける唯一絶対神を指している。即ち、神とは総体として世界において完全なる絶対性を持つ万能無欠の存在であり、無限性・永遠性・完全性そのものであり、何者にも制約を受けず、全ての属性を内包するという存在である。

次に、主体たる自己即ち私たち人間について述べようと思う。「絶対者」との対比で言えば、私たちはあらゆるものに影響(制約)を受け、限定される存在である。その上、生物学的に見れば多細胞生物の一つの種に過ぎないのであるから、必然的に「死」というものに直面せざるをえない。この、二点が絶対者との対比において重要であると考える。

さて、まず考慮すべきは、「果たして絶対者が存在するか」、という問題であろう。古来、あらゆる哲学者たちは神の存在証明という難題に頭を悩ませてきたし、特にスコラ哲学などではキリスト教信仰に哲学的根拠を与えるためにさかんに試みられてきた。宇宙論的証明、存在論的証明、物理神学的証明など、さまざまなものがあるが、私としては「絶対者」というものに対し、授業でも取り上げたカントの立場である有名な二律背反に賛同するところが多かった。即ち、人間の理性というものは推論の能力であって、与えられたものの存在理由やその原因結果の連鎖を問い続けて、「完全性」「絶対性」にまでいきつくまで問うことをやめようとしないものであるから、「絶対者が存在するか」という命題は究極的にはどちらでも説明がついてしまう。この矛盾した結果にも関わらず、答えを出すことは「絶対」という言わば精神的属性故に不可能である。それは、「一と多」、「絶対と相対」、「無限と有限」、などというともすればパラドクスを内包する抽象概念を用いて論理を組み上げていく哲学特有の難問であろう。

私は、絶対者の存在という問いに対しては、こう思う。やはり、私たちが普段生活しているこの世界即ちフィールドというものは相対世界ではないかと。だからこそ、私たちは頼りとなるべきものが必要になるのではないだろうか。絶対者=神というものは、相対的存在である人間に絶対性を付与する究極の形式として人間によって考え出されたものであり、その存在は精神世界に限定されたものだと考える方がよいのではないだろうか。以上のような理由から、私は現世的存在としては神を信じない。しかし、それは「各人によって自由に意志されうるもの(創出されうるもの)」だと思っている。なぜなら、私は私という人間も一つの「前提」に過ぎないと考える。論理学の考え方によると、正しい推論というものは一つの前提からは一つしか導出されない。他方、他の主体にはそれぞれ前提があるはずであるし、その結果の推論は肯定こそすれ、否定はできないだろうからだ。従って、子各人の自由意志にまかせるのが本来あるべき姿であろうし、カントやキルケゴールのいうように、絶対次元に対するアプローチとしては解答の不可能性を呈する哲学的追究よりむしろ、「信仰」という唯一人間がとりうる形式であるべきであると考える。

では、なぜ、人間は絶対者などの絶対的事象を考えるのだろうか。思うに、人間が抱えている「有限性」と「死」というものは人間を、不安や絶望を与え、否応なしに絶対次元に向かわせる。それは、人間が絶対者や永遠性・完全性などそれの持つ属性に同化することによって他者に影響されるという自らの有限性を超越しようとするからに他ならない。だが、「死」は物質的な同化を否定する。そのため精神的なアプローチによってそのことを実現しようとする。

そもそも、人間は絶対性を何一つ持ってないだろうか。思うにニつあるであろう。一つは、「今ここに自己という人間が存在していること。」これは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」からも明らかである。また、他者を認識できること、このことは自己という存在を認識しているということの反作用である。もう一つは、「私という人間の生は、他人とは決して取り替えられない固有のものであり、また二度とない一回きりの絶対的な性格を持っていること。」である。これは、キルケゴールに特有の「実存」の考え方である。なぜなら、厳密にはこの世に同じものなど何一つないのだから。イデアというものも、可想のものであり、実在する類のものではない。差異は、全てに確実に存在する。従って、「個性というものに絶対性が生まれる」のである。

この二つは、決定的に重要である。結局、人間の生きる目的は「有意義に生きる」ことだと思う。そのことを、志向する上でその二点に気付いているか否かというのは天と地の差ほどの違いだ。人間には、「時間と空間」という変えることの出来ない懸隔がある。しかも、与えられた資源は有限だ。そのような状況で、有意義に生きるというのはなかなかに難しい。「絶対者を意識する」という行為は、私の場合は「自己の存在」というものを深く見つめるという契機になった。絶対者の存在を信じることで、持っている以上の潜在的なパワーを発揮できる人もいるだろう。あるいは、絶対次元に同化したと考えることで、安らぎや至上の喜びを感じられる人もいるだろう。主体によって、様々なパタンがありうる。それらは全て「絶対者を意識する」という原因によってもたらされた結果である。確実に言えることは、その行為が「新たな意味を創発した」ということである。絶対次元という非日常的な性質を持つが故に、各主体の実存をより深く掘り下げたと言えるだろう。それが、有意義な人生を実現する手助けとなることを願ってやまない。

なお、この文章を書く際に、カント「純粋理性批判」、キルケゴール「死に至る病」などに見られる考え方を参考にしたことを付言しておく。

 

 

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